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[特集]最新のホテル 宿泊施設の現場に求められるふたつの仕様書 紀行作家・1級建築士 稲葉なおと 東京に立て続けに進出している外資系ホテル。その一軒で食事をした時のことだ。食後に館内を見学させてもらったのだが、もっとも印象に残ったのは客室フロアの廊下、その壁の仕上げ材だった。 厚みのある黒い艶を放つピアノ塗装風の塗り。それが客室の扉や枠にも施されていた。触れば手形がベッタリと貼り付く。見るからに硬質な塗装は、瑕(きず)だけでなく軽い衝撃による欠けも心配だ。瑕や欠けがゲストの眼につくほどになった時、ホテルはどう対処するのだろう。補修はタッチアップでは立ち行かないから、休業して直すのだろうか。そのための売上げ損失は開業時に見込んでいるのだろうか。 案内してくれたスタッフに私が「これ、瑕が大変ですよね」とその場で訊ねたところ、彼は苦笑混じりに認めた上で語ってくれた。 ホテル側の本音など知らないゲストの眼には、スーツケースのちょっとした移動にもスタッフが素っ飛んできて手を差し伸べる、サービスの行き届いたホテルと映っているらしい。彼の説明にお互い笑い合いながら、私は内心その内装の将来を憂えずにはいられなかった。
建築仕様書が 当初の設計が施設の開業後に深刻な影を落としているのは、華々しくオープンする外資系ホテルだけではない。高知県の山奥にある宿では、フロントの女性が設計した建築家に対する怒りを露に愚痴をこぼしていた。外観は宇宙船のような超モダンな建物なのに、建築家は「和」の仕様を取り入れることにこだわったらしく、客室の玄関扉や室内の建具にことごとく引き戸が使用されていた。ところがこれが大問題で、大きく重量のある建具を閉めるたびに、重たい衝撃が左右の部屋にまで鳴り響く。隣のゲストが思わず背筋を伸ばすほどの音と振動は、壁の厚さが不足し、戸の仕様に衝撃および遮音対策を何も講じていないことを物語っていた。 設計の時点で施主は設計者に対して、どのような指導や制限を加えていたのだろう。すでに開業してしまった宿で日々働く人の苦渋に満ちた顔を拝むたびに、私は思ってしまう。建築工事仕様書は果たして存在したのだろうか。 私自身、分譲マンションや商業ビルの企画・設計に長く係わっていたので、仕様書の重要性は熟知しているつもりだ。施主が独自に作成した分厚い冊子には、竣工後の建物利用上、維持管理上のトラブルを軽減するために、設計上の「べき項目」と「べかざる項目」が列挙されている。ところがこと宿泊施設の設計現場においては、たとえ世界に名だたるチェーン・ホテルであっても、設計者を縛る仕様書が機能していないようだ。薄っぺらな仕様書だったのか、厚くても曖昧な内容だったのか、実際の設計が仕様を順守しているかどうかのチェックがおろそかだったのか、私には知る術がないが、重要な書類があって無きがごとくだったことは確かなのである。
粗雑な掃除 宿運営の現場にも、別の仕様書が求められている。そう思うのは、今では入手困難な銘木を使用し、再現できない技で施工された明治や大正、昭和初期竣工の宿が急速に朽ちていく姿を何度も眼にしているからだ。私が必要性を感じるのは、日々の掃除に関する仕様書である。外部のパートさんに清掃業務を委託する宿が増え、その教育と指導が出来ていないために大切な内装が粗雑に扱われている。 「この床は欅の一枚板なんですよ」 「こちらの欄間、組子の繊細な仕事振りを見てください」 「誤って叩き落とした貴重な組子を、届けてくれればまだ修繕のしようがあるんです。掃除のパートさんが叱責を恐れて、ほかしてしまうからどうにもなりません」 箱根の国登録有形文化財の宿・福住楼では、客がチェックアウトした後、従業員が一斉に館内を隅の隅まで拭き掃除していた。町屋の佇まいを残す京都を代表する料理旅館・近又でも、白衣の若い料理人が階段の踏み板を磨き上げていた。奈良の信貴山、村野藤吾設計の宿坊・成福院信徒会館では、朝5時から女将さんも副住職も若い坊さん達も、汗びっしょりになりながら白木の内装を丹念に拭いていた。女将さんは、白木がやがて飴色になるまで磨き込むための独自の手法をはにかみながら教えてくれた。 どの情景にも、建物への愛情が溢れ出ていた。建物は竣工したその日から傷み始める。100年以上前に開業した旅館も、つい最近オープンしたホテルも、やがて傷みが、築年数を重ねた建物ならではの味わいとなるのか、単なる腐朽と化してしまうのか、それは現場における日々の手入れ次第だろう。
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