| HOME > tansei.net24号 > 古代出雲とその建築に寄せて |
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古代の出雲大社本殿の高さが、現在の倍の十六丈(約48m)に及ぶ壮大な建造物だったことは、様々に語り伝えられてきたが、つい数年前までは、単なる言い伝えにすぎない絵空事と思われていた。 例えば、源為憲が平安時代の天禄元(970)年に著した『口遊(くちずさみ)』にいう「雲太、和二、京三」にしても、出雲大社が大和の東大寺大仏殿、平安京の大極殿を上回るというのではなく、神社、寺院、宮殿それぞれ最大のものをしるしたと解釈し、現在の大社そのものが、すでに他の神社を圧倒する「天下無双の大厦(たいか)」であるとされていた。 私が福山敏男先生の復元図を初めて知ったのも、学術書ではなく、出雲大社の社務所で販売されていた小さなパンフレットだった。それを『民と神の住まい』(1960年)で紹介して、一般には大きな反響をよんだが、建築史学的に認められたわけではない。そればかりか、福山先生自身が、高床や階段を支える柱に貫を通したものから、貫のないものへと復元図を訂正した。そこで私も、『民と神の住まい』が講談社学術文庫に収録された際に、復元図を差し替えた(図1)。 しかし、貫なしであの高い構造を果たして支えられたのか、ますますあやしいと思われてもいた。
出典(図1、2ともに):川添登『民と神のすまい』(講談社学術文庫)
建設会社大林組のPR誌『季刊大林』で、編集顧問を社会学者の加藤秀俊とSF作家の小松左京と共にしていたとき、私が提案して福山敏男先生の監修のもとに、大林組プロジェクトチームが、「金輪造営図」による古代出雲大社本殿の復元を特集(1988年)した。 その12年後、2000年4月に、出雲大社の発掘現場から、その柱根が出土して、それが具体的な姿となって現われた。 『日本書紀』斉明天皇5(659)年、つぎのように書かれている。 この記事について、「日本古典文学大系本」(岩波書店)の注は、「旧説では出雲郡の杵築(きづき)大社(出雲大社)としたが、すぐ次に於友群があるので意宇(おう)郡の熊野大社(島根県八束郡八雲村熊野の熊野坐神社)のこと」とし、これが通説になっている。しかし、そうではなく、旧説、すなわち出雲大社の造営とみるのが正しいと思う。もし熊野大社の造営なら、なぜ地元の人々が、狐が役丁のとった葛の末を噛んだり、まして狗が死人の腕をくわえてきたなど、縁起でもないうわさを流したのか。これは大和朝廷による出雲大社造営に対する熊野大社、ひいては出雲の中心勢力であった意字地方の抵抗とみるべきであろう。 その2年後の斉明7年、百済救済のため斉明天皇自ら艦隊を率いて瀬戸内海を西下し、筑紫の朝倉宮に大本営をおいたものの、天皇はそこで崩御し、さらに対馬海峡を渡った倭の水軍が、唐・新羅の連合軍と白村江で戦い、完膚なきまでの大敗をきっしている。 いわばその前夜ともいえる時期に、同じ出雲でも、より新羅に近い杵築に、壮大な出雲大社を造営したのは、当時の東アジアの情勢と、まったく無関係だったとは思えない。おそらく新羅へのデモンストレーション、あるいは倭国防衛のシンボルとして、大和朝廷によって造営されたのではなかったろうか。 『古事記』『日本書紀』によると、乱暴狼藉をはたらいたため高天原を追放された素戔(すさのを)嗚尊は、出雲にくだって八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、助けた奇稲田(くしいなだ)姫と新居を営むために宮殿をたて、つぎのように唄った。 その八重垣を、と歌詞はもっぱら垣に終始しているが、それはただひたすらに、「妻ごみに」のためであって、新妻をこめる、つまり新婚家庭を営むためだともっぱら解釈されてきた。しかし「妻ごみ」とは、それだけの意味だったのだろうか。 日本の伝統的な建築である神社も宮殿も、切妻(きりづま)屋根が基本で、それに庇をつけると入母屋(いりもや)造になる。建築史の太田博太郎は、切妻を真屋(まや)(本当の家屋)とよび、寄棟を東屋(あづまや)とよんで田舎くさい家としているのは、もともと切妻屋根を倭王朝の宮殿建築様式としていたからだろうとしている。 ところが「家屋文鏡」や埴輪家など、古墳時代の図絵や造形物をみると、切妻屋根の多くは妻側の上部が突出している。これは妻壁上部の三角形部分を、炉の煙出しや明りとりにする一方で、そこから雨が降り込むのを防ぐために切妻屋根の妻側を突出させたと考えられている。しかし冬の夜など、風は容赦なく妻から吹きこんできただろう。 その妻をこめるのも「妻ごみ」だった。出雲といえば、製鉄で有名である。その溶鉱炉「たたら」で用いた木炭を、宮殿の暖房にも使って煙出しを不要にし、「妻ごみ」を可能にした。つまり「妻ごみ」の「妻」は、新妻の妻と切妻の妻の両者にかかる懸詞である。 大社造とよばれる出雲大社の建築様式は、きわだって高い高床の上に、あたかも胸をはって立つかのように、妻を正面に堂々とそびえている。その妻が隙間のある素朴な造りであったとしたら、「妻ごみに、八重垣つくる」と歌いあげることができたであろうか。たとえ「妻ごみ」の妻が新妻を意味したにしても、現実にたっている建物の妻が堅固に張りこめられていたからこそ、出雲八重垣の歌を、高らかにうたいあげることができたのである。「八雲立つ」の歌は、新妻をこめるという「聖婚」の儀礼への寿(ことほ)ぎをふくみながら、八重垣に囲まれ妻も張りこめられて、なんと堅固で立派な建築であることか、と歌った宮殿讃歌である。 これに対して、大国主(おおくにぬし)を祭った出雲大社は、八雲立つ出雲の雲のなかに分け入るかのような、高さ48メートルにもおよぶ壮大な神社だった。にもかかわらず、この神社について『出雲国風土記』がしるしているのは、杵築の郷の条に、「天の下造らしし大神の宮を造り奉らむとして、諸の皇神等、宮処に参集ひて、杵築きたまひき、故、寸付(きづき)といふ。」のみである。 出雲大社の地元での正式名称は杵築大社であるから、出雲大社について『風土記』は、地名起源説話としてしかしるしていないのである。 しかし考えてみれば、出雲大社は、9本の太く高い掘立柱によって、「金輪造営図」によれば、3本ずつ計27本によって支えられていた。 さらに長さ1町(約109m)にもおよぶ階段の柱もこれに加わる。その高さをそろえながら、根元を突き固めていくこと、すなわち「きづき」そのものの技術と労力は、私たちが想像する以上の難工事だったのではあるまいか。 大国主は、その高い柱の上の宮殿に祭られていたはずである。にもかかわらず『出雲国風土記』は、まったく逆に、大国主を一貫して大穴持(おおあなもち)―大きな穴の持主とよんでいる。これは「大室屋(おおむろや)」とよばれた大型の竪穴住居の持主の意であろう。古墳時代に、大きな内部空間をつくるには、この工法しかなく、宴会や会議などの集会は、大型の竪穴住居でおこなわれていたと考えられている。 したがって、天下造らしし大穴持とは、天下を治めるため各地をめぐって、それぞれの地域評議会を主宰した神という意ではなかっただろうか。 神話の国である出雲は、建築についても、さまざまなイメージを私たちにえがかせてくれる。
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