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■コラム * tannet flash 「レプリカ」と「バーチャル」の世界観 古川 俊弘 記憶の奔流−無限の複製 その昔、文字の読み書きが特殊な技能であったころ、僧院や仏門では文献を書き写す書写がアカデミーな場として存在した。 貴重な知識や知恵を残すために重要な職務であり、ひとによっては一生涯ただひたすら書き写すという作業を行っていた。
未だまだ見ぬ知識を授かるために大規模な遠征隊を送り込んだり経典を持ち帰るのに数十年の歳月をかけたりと大変な労苦を惜しまずに自らのものにしようとした。 ◇ 「記憶の肩代わり」として、自分以外の誰かが必要なことを提供してくれる環境というのが増加している。 テレビでの旅番組や食事番組は自分が経験しなくても出演者が替わりに経験してくれる。 インターネット、専門誌、広告などでも、これでもかというほど大量の疑似体験情報を提供してくれる。 知ってはいるが未経験という感覚はバーチャルな記憶を増幅させていく。 「記憶の復元力」を示すものとして、形状記憶製品というのがある。 最初に与えられた記憶に戻るべく、その能力の全てを投入しながら復元されていく原型への繰り返し運動。 それ自身が持つ記憶のレプリカ反応として見事に役割を果たす。 「記憶の復旧補助装置」として、地震予知自動防災システムというのがある。 地震が予知されると、まず音声で伝える。次にガスなど火の元を自動的に停止、 情報受信のためにテレビがつき、避難誘導用の照明電源が入る。 玄関ドアも逃げ道確保のために自動的に開く。 また、介護装置で手元のタッチパネルの操作により日常のこまごまとした操作が苦もなくできるシステムがある。 テレビをつけたり照明を消したりと他人の手をわずらわさない設定が色々ついている。 ◇ 一方、「大量の戦慄すべき複製としての記憶」が存在する。最近でもニセ札がまかり通っていた。 国の最高の機密と技術レベルを駆使して作られる貨幣や硬貨。 体系だてられた記憶を持つ両替機やATMの盲点を突き崩すための技術としてのニセ札。海賊版のDVDでは、映画館のスクリーンを直接撮影して大量の複製を作るという。 カードの偽造、迷惑メール、自分の知らないところに大量の複製が(しかも正確な複製)存在すると知るとき、 すくみあがってしまう。 記憶が植え込まれたものはその内部で恐ろしいほどさまざまなステップを次々に命令し完遂していく。 ステップを踏み外せないシステマチックな流れとして正確に作動する。その結果が大量の複製として存在する。 ◇ ただひたすらに洞窟の中を進むという小説があった。 事故によって閉じ込められた一行が地上を目指して悪戦苦闘の旅を続ける。舞台は洞窟の中だけである。 初めは偉大な造形美に圧倒されつつ楽観しながらも出口を探す。 それが何日にも渡る厳しい道程とは思いもよらず、たいまつや食料を消費していく。 いつしか食料も細々となり明かりもなくなっていく。かすかな情報を頼りに必死に外へ、光の満ちる出口を探し続ける。 真の闇の中、遠くの川の音を聞きつけ近づいていく。やっと見つけた地底の川を手探りで渡る。 もう行き止まりかと絶望しつつ、ひとひとりがやっと通れる隙間を見つける。 はいつくばって徐々に上へ登っていく、と突然急な坂道を転げ落ちたりと極限の旅は続く。 情報量の絶対的な不足の中、全感覚を集中し、空気のわずかな流れ、臭いのかすかな変化を嗅ぎ取り進んでいく。 ◇ シンプルな機能を持つ家電製品や携帯が売れているという。 高齢者や障害者を想定して開発されたが、意外にもそれ以外の層が一般的に買い求めるという例が多いとのこと。 良かれと思ってつけた様々な機能は個人の記憶容量の片隅にしか残らず全ては生かされない。 脳の中には、まだまだ生かされていない領域があると言われても記憶として重要なことは千差万別である。 「記憶すること」と、「はじめから与えられた記憶」を利用することには大きな開きがある。 原初的な体験をもとに記憶されたことは行動を促す確かな力となる。 (ふるかわ としひろ/IMCC本部 業務・購買部 購買担当チームリーダー) このページに掲載の内容、写真などの転用をお断りします。 Copyright 2005 TANSEISHA.co.,ltd. All right reserved. |