|
■ケーススタディ 倶知安風土館 小川原脩記念美術館
“地域に開かれた”ミュージアムへのチャレンジ 倶知安風土館 地元のことは地元の人に聞け 参加する事で親しみを抱ける施設に
鉄筋コンクリート2階建て、延床面積約1800m2の館内は、1階に体験学習室や工作室、学習室などを配し、2階を展示スペースにあてている。展示は大きく2つに分けられ、ひとつは、倶知安町を中心にしたこのエリアの広大な航空写真や倶知安の森の自然と生き物の営みを知るための「自然と環境」のゾーン。もうひとつがこの町で営まれてきた人々の暮らしと文化に触れる「暮らしと文化」のゾーンで、小室に区切られた6つの展示室は、昭和の時代の人々の住まいや学校の教室を再現した「すまう」「学校」、当時の子供たちの遊びがうかがえる「この指とまれ」といったテーマごとにまとめられている。ある世代以上には懐かしく、そしてまさに、自分たちが営んできた暮らしそのままの姿がそこにある。
もともとは全国各地でよく見かける郷土資料館づくりを目指していたという同館が、紆余曲折を経ながら現在のような構成になったのは、「ただ資料を並べて展示するだけで、一度行ったらもう行かないというようなものにはしたくなかったですし、自然のなかにあってはじめて自分たちも生きているということを理解できるものにしたかった」(館長・矢吹俊男氏)という思いと、「地域に開かれた博物館を標榜するところは多いのですが、本当にそうなのか」という自身への問いかけがあったからだった。 それなら「自分たちで本当に地域に開かれた博物館づくりをしてみよう」というある種のチャレンジ精神に突き動かされたといっていい。実際に館に足を運んでみるとわかるが、展示されている資料はどれも手にとって触れることができるし、通常の博物館には当たり前のようにある解説パネルなどもほとんど見当たらない。「わからないことはまず聞くのが一番いいし、触れさせることで資料が壊れる心配をしがちですが、現実に壊れることは少ない」(矢吹氏)ようで、ものを壊さない、大切にするという最低限のルールを子供たちはここで学ぶことになるのかもしれない。
むしろ、ここでは逆の現象も見られる。いつの間にか展示品が増えているのだ。ここを訪れる町の人たちが、自分の家にあった古いものを勝手においていってしまうからだが、「ここで生活してきた人にとっては、ここの住まいの様子は少し違うということなのでしょう。それは個人個人でそれぞれ違うはずですが、それを違うとは私どもはいいません。むしろ地元のことは地元の人たちのほうがよく知っている。実はここがオープンするまでにも、多くの人に話を聞いたり、実際に展示づくりのお手伝いをしていただいたのです」(矢吹氏)というように、地域の人たちが関わりながらつくり上げられてきたのが、この風土館なのである。また、そうであるだけに地域の人たちにとっては親しみのもてる施設であるのだ。 だからオープン後も、来館者として度々足を運ぶ人、ボランティアでテーブルやイスを修繕する人、草刈りをする人などの姿が日常的にみられる。こうして風土館は、これからもどんどんと変わっていくだろうが、その変化こそ、地域の人々が自分たちの施設として風土館に参加していることの証でもある。
データ 2002年9月現在
小川原脩記念美術館 美術館の固定観念にとらわれない その人なりの過ごし方ができる施設に 同じように、これまでとは違った美術館の姿を追い求めているのが「小川原脩記念美術館」である。 同館は、惜しむらくも8月に他界されてしまった同町出身の画家・小川原脩氏の作品を紹介する美術館である。美術館の開設計画自体はかなり以前からあったようだが、何度も計画の見直しが行なわれるなか、市民グループ「小川原脩の絵を考える会」の要望や氏本人からの作品の寄贈などを受けて実現に至ったもの。 雄大な羊蹄山を背景に、謙虚な姿でたたずむように見える同館には、建物の設計段階から、まだ存命だった小川原氏からも「建物が自己主張するような施設、自然と対峙するような建物にはしてほしくない」という要望も出され、町としても同氏がかつて旅したチベットの風景のなかで自然と同化し、やがては風化していくようなイメージの建物を考えていたという。 そのため、あえて平屋建ての形態をとった施設は、内部も2つの展示室と映像ギャラリー、ホールというシンプルな構成。展示室以外に間仕切りはなく、ホールから事務室までがすべてオープンスペースという開放的な空間である。テーブルにはフリーのコーヒーが用意され、ホールのガラス張りの壁を通して羊蹄山を一望できるとあって、「ここではいろいろな過ごし方をされる方が多いですね。作品を見て感動し、ホールから羊蹄山を見てまた感動し、コーヒーを飲んで帰っていく人とか、半日以上ホールにいて作品を見ずに帰る人とかいろいろです」と同館の館長も務める矢吹俊男氏はいう。
美術館に行くと、そこの緊張した雰囲気から思わず体が硬くなってしまうという人も多いのではないかと思うが、ここでは「そんな肩肘張った見方はしてほしくない」ということなのだろう。もちろん作品を鑑賞するための空間・環境づくりにはしっかりと注力されているが、「美術館では静かにしなければならないという暗黙の了解があって、感動して声を出すこともできないし、展示室には必ず監視する人がいてきつい視線を感じたりする。質問もできないし、絵に近寄りすぎると注意される。ここはそういう美術館にしたくなかったし、見る人がもっと自由に自分のスタイルで見られるようにしたい」(矢吹氏)というのが基本的な考え方であった。だから、作品には(本人の了解を得て)ガラスを入れていないし、ベンチに寝そべって見てもらってもいいのだという。 同館はもともと観光客誘致ではなく、第一義に地元の人たちに利用してもらうための施設である。したがって、いかに地域の人たちに利用してもらうかが当初からの課題であった。そのために頻繁に展示替えを行なったり(昨年は12回実施された)、展覧会やワークショップなどを行なったりと工夫を凝らしている。ただ、芸術に触れる、学ぶというスタンスで行なっているのではないことは確かだ。小川原脩氏の作品をモチーフにした絵本を親子でつくるとか、氏の作品のタイトルにみんなで名前をつける「題名のない展覧会」、「あなたが選ぶ展覧会」など気軽に入れる入口を用意している。 「でもそれをしっかりとフォローし継続していくことが大事。私どもにも適切なアドバイス、指導をしていけるだけの力量が求められますが、そうした積み重ねによって施設にも親しみをもっていただけるのでは」(矢吹氏)と、今後も試行錯誤していく姿勢をみせている。 「ホールの利用は無料ですので、よく近くの中学生がテスト前になるとここに勉強しにきています。疲れると作品をみたりして『癒される』なんていっています(笑)」と、本当なのか冗談なのかわからないが、でもそれが不思議に思えない雰囲気をこの美術館はもっている。「絵は描きたい人が描けばいい」と語ったという小川原氏の、どこか温かみを感じさせる言葉が、そのまま表われているようである。
小川原 脩●おがわらしゅう 1911(明治44)年、倶知安町生まれ。旧制倶知安中学を卒業後、東京美術学校油彩科に入学。在学中に帝展に入選。卒業後、個展を開きながら美術文化協会創立に関与し、戦後、倶知安に戻った。60歳を過ぎてからチベット、中国、インドなどを訪れ、新境地を拓く。 ※8月29日に小川原脩画伯が急逝されました(享年91歳)。ご冥福をお祈り申し上げます。 データ 2002年9月現在
このページに掲載の内容、写真などの転用をお断りします。 Copyright 2002 TANSEISHA.co.,ltd. All right reserved. |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||