![]() ■ケーススタディ 佐賀城の本丸御殿を復元した歴史博物館が 日本近代化の先駆け・幕末佐賀を今に甦らせる 佐賀県立 佐賀城本丸歴史館 日本の近代化を先導した"幕末・維新期の佐賀"の魅力やエネルギーをわかりやすく紹介する佐賀県立佐賀城本丸歴史館が8月1日、佐賀市城内の佐賀城本丸跡にオープンした。建物は、幕末期の佐賀城本丸御殿の一部を忠実に復元して建てられており、木造復元建物としては日本最大の規模を誇る。
佐賀城は、天正年間に整備された戦国大名・龍造寺氏の居城・村中城を、慶長12(1607)年に鍋島佐賀藩体制をスタートさせた鍋島直茂・勝茂父子が、慶長13(1608)年から慶長16(1611)年までの佐賀城総普請により拡張整備した。 しかし、享保11(1726)年の佐賀城大火で、天守閣をはじめ、本丸・二の丸・三の丸を焼亡。本丸御殿は、その後110年間は再建されず、藩政は享保13(1728)年に再建された二の丸御殿を中心として行なわれた。だが、この二の丸御殿も天保6(1835)年の火災で再び焼失する。このため10代藩主鍋島直正は本丸御殿の再建に着手し、天保9(1838)年に完成させる。 明治に入り本丸御殿は、佐賀藩庁、佐賀県庁として利用され、明治7(1874)年の佐賀戦争でも焼失を免れ、佐賀裁判所、佐賀中学校、佐賀師範学校、赤松尋常小学校などとして活用された後、御座間を除くほとんどの建物は大正9(1920)年に解体された。今回建設された佐賀城本丸歴史館の建物は、この天保期の本丸御殿を復元したものである。 佐賀県では、佐賀城跡に幕末・維新期をメインに佐賀の通史を展示する歴史資料館を建設する計画を昭和58(1983)年にスタートさせる。同館の建設に先立ち、93・94年度に佐賀市教育委員会が確認調査を実施。その結果、本丸を区画する石垣や土塁のほか、「佐賀城御本丸差図」とほぼ一致する建物の礎石を発見する。 全国的に見ても、本丸御殿の発掘調査例は少なく、その意味で、佐賀城本丸跡は城郭史や建築史の観点から貴重な資料であることから、佐賀県は本丸遺構を保存しながら本丸御殿の一部を復元し、佐賀城本丸歴史館として活用することを決定。さらに、佐賀城本丸歴史館の周囲を「佐賀城公園」として整備することとしたため、今度は県教育委員会が99〜01年度に発掘調査を行なった。 本丸御殿の復元にあたっては、そうした発掘調査や絵図・差図・文献資料・古写真、類例建物など建物復元調査の成果をもとに、展示スペースとして広い空間の確保を考慮に入れて、復元個所を選定。本丸御殿の遺構をコンクリートの耐圧盤で保護しながら、木造で復元した。 佐賀城本丸歴史館は、本丸敷地全体に建物が建ち並ぶ巨大な建物群である本丸御殿のうち「御玄関(おげんかん)」「御式台(おんしきだい)」「外御書院(そとごしょいん)」「御三家座(ごさんけざ)」「御仕組所(おんしくみどころ)」「屯之間(たまりのま)」「御小書院(ごこしょいん)」「御座間・堪忍所(ござのま・かんにんどころ)」「御料理間(おりょうりのま)」「御納戸(おなんど)」を復元。このうち御三家座、外御書院、御料理間を常設展示室として、「佐賀城の変遷と本丸」「幕末・維新期の佐賀」「明治維新と佐賀の群像」の3つをテーマに展示。また御小書院を特別展示室としてテーマ展示を年3、4回行なっていく。 佐賀城本丸歴史館では、年間7万5000人の集客を目標としているが、オープン後18日目にして3万人を達成するなど、好調なスタートを切っている。同館の学芸担当係長・山口久範氏は「佐賀藩が幕末期の日本を動かす一角であり、政治的な面でも、科学技術的な面でも、非常に優れていたということを、全国に向けて情報発信していくとともに、これまでの博物館の殻を抜け出して、単なる展示物の陳列だけにとどまらず、館自体が佐賀藩の藩政の中心であった本丸御殿を体感することのできる施設に発展していってほしい」と期待を示す。
関連サイト: 佐賀城本丸歴史館 データ 2004年09月現在
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